中高一貫(六年制普通科)

研究成果発表

平成24年度

平成24年度 第43回「立志の日」作文コンクール

主催:岩国市青少年育成市民会議

最優秀賞

ゆっくり夢を育てていこう2年 柴田 優香

「声楽家になりたい」
 数年前、クラッシック音楽歌手である岡本知高さんと同じステージに立つ機会があった際に、私はそう思いました。それまでも声楽の指導は受けていましたが、その岡本さんとの出会いによって、声楽家になりたい気持ちがさらに高まったのです。そのステージで、私は、岡本さんの声がとても綺麗であると感じると同時に、岡本さんの声が私の中に自然に入りこんできて、沸き上がる「感動」を身体中で感じました。そして、初めてお会いする岡本さんと、気持ちまでも共有する「つながり」を感じました。「歌」って、「音楽」って、本当に素晴らしいものなんだなあと、そのとき改めて感じたのです。
 しかし現在、私の心の中では迷いがあるのも、正直な気持ちです。小学六年の時に、あの有名な谷村新司さんと同じステージに立つ機会がありました。その際谷村さんに、 「将来何になりたいの?」 と聞かれました。私は、そのとき、 「精神科医になる」 とはっきり答えました。そうなのです。私が将来なりたいものは、十四歳を迎えた今、まだ明確には定まっていないのです。声楽家になりたい、医師になりたい。しかし、決めきれずにいる私なのです。悩んでいる私、それが、十四歳の私であり、今の私なのです。
 世界には、本当にたくさんの人々が生きています。人は生きている限り、嬉しいことや楽しいことばかりではなく、誰もが辛いことや悲しいこと、悩みを抱えて生きているのだと思います。そんな世界中のさまざまな人々の役に立つ仕事をしたいという気持ちは、何になるにしても共通している私の思いです。その方法が、まだ定まっていないのです。
 医師になりたいと思うようになったのは、平成二十一年に亡くなった祖母の入院生活が長く、よく病院を訪れていたことで、医師という職業に興味を持つようになりました。またその後、祖父がその介護疲れで、精神的に疲れてしまいました。現在社会には、心を病む方が今は大変多いということを、新聞やテレビで知りました。現代社会は、経済的に豊かになり、科学技術も高度に発達し、より便利で快適な生活が実現しています。その一方で現在社会はストレス社会とも呼ばれています。現代人は多くのストレスを抱えて、心の病に悩んでいます。私は、医師といっても精神科医師に興味があります。よく耳にする「三時間もの長い間待って、やっと診察の順番が回ってきたのに、診察はわずか三分程度で終わってしまう。」という「三時間待ちの三分間診療」ではなく、そのように病んだ患者さんに寄り添い、しっかり話を聞いて、患者さんと同じ立場に立ち、ともに考えることのできる医師になりたいと思っているのです。
 そして、もうひとつの夢である「声楽家」。私は、小学四年の時に合唱団に入団したことがきっかけで歌に興味を持ち始めました。歌と出会って、たくさんの勇気や希望をもらいました。私は、歌が好きで、歌や音楽は、自分の中に流れる血液のようなもの、命そのものなのかもしれないと思うのです。
 私が勇気や希望をもらったように、私も人の心に響く歌を歌い、私の歌う歌で、生きる希望をもってもらえたり、世界中の方の人生に光を与えることができたりと、少しでも人の役に立つことができたらと思うのです。歌や音楽は、言葉や人種を越え、世界中の誰もが感動し心に伝えることができる素晴らしい芸術だと私は思います。歌や音楽が好きな人だけでなく多くの人々に、「歌の素晴らしさを伝えたい。」「歌を伝えることの大切さを教えていきたい。」「歌を未来に届けていきたい。」そして、「歌で世界をつなげたい。」と思います。住む場所や、言葉、自分の周りの環境がどんなに違っていても、歌に壁や隔たりはないはずだと信じています。歌で世界をつなげ、喜びや楽しさをみんなで一緒に分かち合うことのできる世界をつくることに、私の歌を通じて関わりたいと思うのです。
 私の夢へ翔くための翼はどこへ向かうべきなのでしょうか。そして、どこへ向かいたいのでしょうか。慌てて結論を出さずに、自分を信じ、目をそらさずに、今の自分と向き合い夢を育てていこうと思います。「何に向かって進めばいいのか悩んでいる自分」と、しっかり向き合いたいと思います。そして、いつか勇気をもって、自分自身の力で、今は隠れている大きな翼を広げ、大空へ翔きたいと思います。

第10回日台文化交流 青少年スカラシップ

以下、産経新聞「人」欄から抜粋

 日本と台湾の若い世代の相互理解と交流を目的にした 「第10回日台文化交流 青少年スカラシップ」 (主催=フジサンケイビジネスアイ、産経新聞社、共催=台湾・外交部、 台北駐日経済文化代表処、特別協賛=アパホテル、東海旅客鉄道、 協賛=ケン・コーポレーション、全日本空輸、エバー航空日本支社、三井物産) の受賞作品が決まった。

 大賞に山口県岩国市の私立高水高等学校1年、好中奈々子(よしなか・ななこ)さんの 作文「台湾と『ぞうさん』の歌」が輝いた。

審査委員長特別賞に内田一希(うちだ・いつき)さん(同志社大学1年)、 復興支援特別賞に寺門理沙(てらかど・りさ)さん(お茶の水女子大学附属高等学校3年)、 優秀賞には小野純子(おの・じゅんこ)さん(名古屋市立大学大学院2年)ら15人が選ばれた。
 「真の若者交流を通じて明日の日台新時代を拓く」をテーマに、 中学、高校、大学生から作文、書を募集。1443点の応募があった。 表彰式は3月25日に東京・白金台の台北駐日経済文化代表処で行われ、 大賞、審査委員長特別賞、復興支援特別賞、優秀賞受賞者を5泊6日の台湾研修旅行に招待する。

以下、SankeiBiz 2月19日(火)8時15分配信

 「えっという感じ。まさか一番大きい賞をもらえるとは思ってもいなかった」。 大賞に選ばれたことに、何よりも驚いた。
 受賞した作文のタイトルは「台湾と『ぞうさん』の歌」。 地元・山口県の動物園でゾウが死んだという身近な話題から始まり、 童謡「ぞうさん」を書いた山口県生まれの詩人、まどみちおの台湾での体験を追想する。

 日本で祖父と死別し、両親のいる台湾に渡った詩人が感じた孤独。 さらに、植民地時代のスラム街に住む台湾人への思いを重ね、 鼻が長いと言われたゾウが「母さんも長いのよ」と答える歌の意味を考察する。 「自分の一番好きなお母さんと一緒であることに喜びを感じ、 他と違う自分の長い鼻に自信と誇りを持っている。 長い鼻は、むしろぞうであることの尊厳の象徴なのだ」と思い至った。
 台湾については、インターネットや図書で学んだ。 また、父の紹介で東京在住の台湾出身の女性とメールをやりとりし、アドバイスをもらった。
 高校ではユネスコ部に所属し、ボランティア活動に情熱を傾ける。 好きな教科は古文。将来の夢は医師になること。 日本を出て世界で仕事をしてみたいと、国際関係や経済学にも興味を抱いている。
 研修旅行で3月に台湾を訪問する。 「人と出会い、何かを一緒にするのが好き。 ピアノを習っているので、ぞうさんの曲をアレンジして頑張って練習し、 台湾の人たちと一緒に歌います」と笑顔で話した。(村上栄一)

台湾と『ぞうさん』の歌六年制普通科1年 好中奈々子

 昨年、徳山動物園のゾウのマリが死んだ。
 動物園に行くと「首の長いのがキリンさん、ぞうさんはお鼻が長いね」と言うのが亡くなった祖父の決まり文句だった。
 マリのニュースは、祖父との思い出もなくなるようで悲しかった。 動物園にはマリの詩碑がある。詩の作者は、童謡「ぞうさん」で有名な詩人"まどみちお?だ。
 私が台湾研修旅行でやってみたいこと、それは、「ぞうさん」を台湾日本語世代の方々と一緒に歌うこと。
 同世代の人達とは、美智子皇后によって英訳された「LITTLE ELEPHANT」を共に朗読すること。 なぜなら、まどみちおは、私の地元山口で生まれ、台湾で育ち、台湾で詩人としての第一歩をスタートした、日台双方にゆかりのある詩人だからだ。
 みちおは、幼少期を祖父と二人で暮らしている。祖父の死を機に、両親のいる台湾に渡るが、家族との間にわだかまりを感じた。 この孤独感が作詩の原点になったといわれる。みちおは、明るく青い台湾の空と美しい緑を見つめながら、その胸の寂しさを詩に換えていったのだろう。
 当時一家が住んでいた台北市龍山寺付近には、賑やかな日本人住宅の側に台湾人のスラム街があった。 台湾淡江大学の客員教授であった金子保氏は、「ぞうさん」は植民地時代に差別された台湾人ではなかったのかと推測する。 だが私は、「鼻の長いぞうさん」は、彼自身でもあったように思う。 日本で祖父に先立たれ、一人台湾に渡った日本人。彼も周囲と相容れない異和な存在であったろう。
 台湾出身の孟寧さんは、父の友人の奥様で来日2年目だ。 私が孟寧さんに日本の印象について質問をすると、「日本人は細かいところまで仕事ができる。 仕事のルールを社員が確実に守るので、仕事・商品・サービスの質が良い」と教えてくださった。 一方、「日本人は、台湾人に比べてオープンマインドではない。だから、台湾では親しくなるのに三週間、日本では三年かかる。 特に外国人に対して排他的な感じを受ける。気のあった同質な者同士でグループを作り、異質なものは仲間に入れない。 台湾人は自分の考えや嗜好をもっていて、周りの人も考えや嗜好の違いに敬意を払い受け容れる」ともおっしゃった。 とりわけ、孟寧さんの「東京は、街は国際的かも知れないが人間は国際的ではない」という言葉が胸を突いた。
 みちおの「目の色が違うから、肌の色が違うから、すばらしい。 違うから、仲良くしようというんです」という思いは、異和の存在であるみちおを受け容れた台湾、孟寧さんの故郷、台湾の風土の中で育まれたに違いない。 だから、ぞうは嬉しそうに「母さんも長いのよ」と答えるのだ。 「自分の一番好きなお母さんと一緒」であることに喜びを感じ、他と違う自分の長い鼻に自信と誇りをもっている。 長い鼻は、むしろぞうであることの尊厳の象徴なのだ。
 同じ地球に住む私たち人間は、顔も肌の色も考え方も習慣も文化も皆それぞれ違っている。 もし同じだったら、なんともつまらない世界だっただろう。違うからこそそれぞれに価値があり、お互いに補い合うこともできる。そこに進歩も発展もあるのだ。
 昔日本は、半世紀もの間、台湾を植民地として支配下に置いた。 土地を奪うだけでなく、文化や命まで奪い取ろうとしたのだから、日本人をよく思っていない人も多いだろう。 しかし、台湾には親日家も多いと聞いている。 それは台湾統治という国家の目的があったにせよ、心血を注いで台湾の発展に尽くした義人のような日本人たちのおかげである。
 今日、世界でも有数の経済力を誇る民主主義国として発展した台湾だが、台湾問題において、国連や日本も国家と認めていない。 この背景にあるのは、国と国との経済や安全保障の力関係であり、中国や米国との摩擦を懸念するからであろう。 国家の信頼関係が、国益の問題の上に成り立つ利害関係であってはならない。  国が人を創るのではなく、人が国を創るのだ。だからこそ、先人が示してくれたように互いを認め合う文化の交流が必要なのだ。 過去の事実は変えられないが、今の私たちの生き方がこれからの日台関係を築く。 日本は古くからの友人として台湾が民主的な独立国家として国際社会の一員となれるよう支援していかなければならないと私は考える。
 3千年の時を超え、孔子は「朋遠方より来たる。亦楽しからずや」と語る。 私は海を越えて、自分とは違う文化をもつこの世界を共に生きる友だちに出会ってみたい。 みちおと交流のあった台湾の詩人詹冰の作品についてもっと知りたい。 みちおの育った、孟寧さんの故郷、台湾を今度は私の目で見てみたい。
 そして私は誓う。真の国際人になるために学び続けることを。

第8回「心の中に平和」エッセイ作文コンクール

主催:松山ユネスコ協会
共催:国際ソロプチミスト松山 愛媛新聞社 愛媛県ユネスコ連絡協議会 北条ユネスコ協会
応募数 135点
審査  10月30日 松山ユネスコ協会事務局
審査員 一色和壽子 赤松孝子 有田二郎 寺坂史子 西島節子 和田和子
表彰式  12月8日 いよてつ高島屋スカイドーム

松山ユネスコ協会長賞(最優秀賞)

平和への思い六年制普通科2年 松田慶太

私は今年八月上旬、ユネスコ子どもキャンプに参加しました。日時の生活から離れ、山の中で四日間を過ごしました。
キャンプには、小学四年生から中学三年生までのキャンパーと高校生以上のスタッフ、計百数十人が全国各地から集まってきました。キャンプは十名程度の班に分かれ、全員初対面の者同士の自己紹介から始まり、新しい出会いを提供してくれます。活動の内容は、野外炊飯やキャンプファイアーをはじめ、外国の子どもたちとの交流や錦帯橋巡り、ナイトハイクなどで、スタッフが一年がかりで準備してきたものです。
私は、四月からこのキャンプの実行委員として企画にも携わり、夏の本番を迎えるまでのさまざまなスタッフの苦労を共に味わってきました。その甲斐あって、キャンプ当日は大勢の子どもたちと触れ合っていく中で、子どもたちの笑顔をたくさん見ることができました。私はその無邪気な笑顔を見て、平和を感じました。老若男女が笑顔でいられるこの瞬間に平和を感じました。
普段の生活では、子どもは小・中・高等学校へ、大人は大学、仕事、ハウスワークなど、それぞれの人間がそれぞれの場所で活動します。休日は友人と遊んだり、家族と過ごしたり、これの繰り返しです。確かに、人間同士の触れ合いはあります。しかし、これは、多く同世代の、いわゆる横のつながりしかありません。今までの私なら、これが普通の日常であり、この日常に満足していました。
しかし、このキャンプに参加し、思うようになりました。今必要なのは、違う世代同士、縦のつながりである、と。そして、縦のつながりができてこそ平和は訪れる、と。
大人と子どもがつながって、どう平和が訪れるのか。
例えば、今に限ったことではないですが、いじめ問題。子どもと大人がつながっていないため、子どもが大人を敬遠し相談できず、大人の知らないところでいじめはエスカレートしていく。
今の日本に、大人と子どもが、家庭以外でともに笑い合う機会はあるでしょうか。私はほとんどないと思います。大人と子どもは別世界で生きていると言っても良いのではないでしょうか。そんなことではいつまでたってもいじめや不安、争いごとのない社会はやってこないと思います。
私の思う平和は、大人が子どもを思いやり、子どもが大人を信頼することができるようになってこそ成就します。その土台を作るには、まず大人と子どもが触れ合うことから始まると思います。このキャンプで過ごした四日間が有意義なものであったと思うことができるのも、キャンプに参加したみんながお互いに信頼し合い、心が結ばれていたからであると確信します。

六年制普通科2年 松田慶太

全日本高校模擬国連大会(Global Classrooms in Japan 2012)

 2012年11月10日(土)-11日(日)、東京の国連大学において、第六回全日本高校模擬国連大会が開催されました。
本大会には全国97校(137チーム)中52チームが選抜され、本校も1年ぶり5回目の出場を果たしました。

会 場: 国連大学本部
議 題: 核軍縮 (Nuclear Disarmament)
会議場:第67会期国連総会軍縮・安全保障委員(通称第一委員会)
(United Nations General Assembly, Disarmament and International Security Committee)

夢のような時間六年制普通科1年 好中奈々子

模擬国連大会に向けて準備してきた多くの時間、そして大会の2 日間は、これまでの私の時間の中で、夢のような時間だったような気がします。
高水では、中学の時から新聞ノートを作って、環境問題や国際理解について考えたり、平和学習に取り組んでいます。
けれど、これまでの私は、あまり問題意識をもって向き合っていませんでした。
しかし、大会出場を目指して、国際問題に目を向け、自ら国勢や経済についてたくさん勉強をしたことは、教科書では学べない私の生きた財産になりました。
そしてそれ以上に私にとって素晴らしい宝物になったのは、たくさんの人との出会いです。
全国の高校生と出会いはもちろんのこと、準備の時からたくさんの方にお世話になりました。
「ちょっと怖そうだな…」と思っていた担当の池田先生は予想通り厳しく、志望動機を書く段階から何度もダメ出しをいただき、これまでの自分の生活が、薄っぺらい見せかけのものであったことを思い知らされました。
大会前日には池田先生を慕う在京の高水の先輩方が応援にかけつけて下さり、先生が本当は優しいこともよく分かりました。
高水の学生であることの良さを感じたひとときでもありました。先生方や友達からは励まし言葉や応援をたくさんいただき、多くの方の支えで本当に貴重な体験をさせていただいたことは、夢ではありませんでした。
大会では核軍縮をテーマにコロンビア大使となって、コンゴ共和国やモンゴル大使と交渉を行いました。
都会の学生は優秀なのか早口で、最初は日本語も聞き取れない始末でした。
けれど励ましてくれる先生や友達のことを思い出して、西藤さんと夜遅くまで翌日の準備をし、2日目は積極的に会議に臨むことができました。
今、テレビのコロンビア缶コーヒーのCMを見ると、とても他人ごとには思えません。
模擬国連への出場は私の夢でした。
この大会出場はゴールではなく、真の国際人へのスタートとしていきたいと考えています。

全日本高校模擬国連大会(Global Classrooms in Japan 2012) 全日本高校模擬国連大会(Global Classrooms in Japan 2012)

貴重な体験六年制普通科1年 西藤志帆

模擬国連は国連にのっとったルールで行われます。
その国連は、国と国とが合意できる政策を踏まえた上で条約を立案しなければなりません。
ディベートのように、一方的な意見を主張するだけでは、国際会議は成り立たないのです。
私たちは、コロンビア大使として模擬国連に出場しました。
リサーチを続け、コロンビアという国の問題点、改善すべき点を挙げ、会議の進め方を決めた上で大会に臨みましたが、私たちのリサーチではまだまだ不十分であり、太刀打ちできず、強豪校に丸め込まれてしまったのです。
それでもなお、大会前日にいただいた、以前模擬国連に出場した卒業生の先輩方の「最期まであきらめるな」というアドバイスを思い出し、自分たちの国の政策に合ったグループに入ることができました。 最終的に、スポンサー国の数が条件を満たさず提案が提出できませんでしたが、各々の思い通りの結果では終わらなかったものの、最期まであきらめず一丸となって協力した仲間はたったの2日間という短い間でしたが、とても大切な存在となりました。
模擬国連に出場したことによって、私は自分の意志を伝える力やその大切さ、そしてなにより、今の自分に欠けているものを見つけることができました。
新しい仲間とも出会い、貴重な体験をさせてくれた模擬国連は、人生においても貴重な体験だったと思います。
最期に、私一人では、模擬国連に出場するどころか、その存在さえ知らずに終わっていたと思います。
模擬国連に誘ってくれた好中さんと池田先生にはとても感謝しています。
ありがとうございました。

六年制普通科1年 西藤志帆 六年制普通科1年 西藤志帆

第52回 国際理解・国際協力のための全国中学生作文コンテスト

那須さんは、県大会で応募総数66点から最優秀賞(県知事賞)に決まり、全国大会に進出、 応募総数2,554点から上位4名の特賞(日本ユネスコ協会連盟会長賞)に入りました。 その結果、副賞として那須さんは、来年の春休みに「奥・井ノ上記念青少年国連視察団」として米国ニューヨークに派遣され、 国際連合本部の視察や国連関係者との懇談等を行う予定です。

もしも私が国連職員なら高水高等学校付属中学校3年 那須浩子

 私は今年の夏、初めて三泊四日のユネスコ子どもキャンプに参加しました。今年は、私の住む山口県岩国市で開催されました。
私はこのキャンプで特に心に残ったことがあります。それは、三日目のペリースクール生との交流です。私の住む岩国市には米軍基地があります。私の家から自転車で十五分のとても近い所にあります。ペリースクール生とは、そこに住んでいる小・中学生のことです。
私の班にはペリースクール生が三人やって来ました。小学四年生の女子と私と同学年の男女、の計三人です。 その中の私の班の同学年、つまり中三の男子は学校で日本語を勉強していました。 ゲーム遊びなどのとき、彼は私たちが日本語で説明すると、それをあとの二人に英語で説明してくれました。
私たち日本人でも国語は難しいと思うのに、同じ中三生の彼が通訳できることが本当に驚きでした。 さらに彼は、日本語をもっと勉強して日本のお店で働きたいと言ったので、私はもっと驚きました。 それは単に日本語が話せるだけではなく、自分の将来について真剣に考えて学校生活を送っていることがわかったからです。
その日の昼食は、ペリースクール生とうどんを一緒に作って食べました。 最初出会った時は両方とも緊張のせいか何も話せませんでした。 しかし、料理を一緒に作ったり食べたりするうち、互いに慣れない英語と日本語を使ってどんどん会話が弾むようになりました。 同じ日本語でも、言葉をもっと簡単な言葉に置き換えたり、英語に翻訳したりする作業を、この時ほど真剣に行ったことはありませんでした。 しかしその試みがうまく行くと、相手の心に伝えたいことがスーッと入って行くのがよくわかりました。その時は思わずお互いが笑顔になりました。
黒人と白人が同じ班に割り当てられた所もありましたが、私たち日本人が一緒に入ると肌の色を見ているだけで、これが国際社会なんだと変な感慨を持ちました。 今世界では、肌の色が違うだけで差別を受け、戦争や貧困のため食事ができない子ども達がたくさんいます。私は、自分と違う国の子ども達と一緒に食事をすることができて単純に幸せだと思いました。
私の班の奈良県から来た少女が、 「私は外国人の子どもと初めて話したよ。初めは、テレビとかで見る外国人は怖いイメージしかなくて話すのに抵抗があったけど、話してみるととても楽しかった。」 と言っていました。
国連は、私たちとペリースクール生との交流の架け橋となってくれた通訳のできる彼のように、国と国とを繋ぐ架け橋だと思います。 もしも私が国連の職員なら、世界には怖い人ばかりでなく一緒に笑いあったりできる優しい人がたくさんいるということを伝えていきたいです。 班の少女が外国人は怖いイメージしかないと言いました。私はその感想や言葉を消し去っていきたいです。 自分で見たこと感じたことを素直に正直に伝えられる職員になりたいと思います。 なぜなら、私たち子どもは一緒に食事をしてもキャンプをしても争うことはないし、互いに相手を思い合い、譲り合うことを知っているからです。
国際社会ではいまだに紛争が絶えません。先ごろシリアでは日本人ジャーナリストが殺されました。本当に悲しい。 今年、子どもキャンプのテーマは「心に橋をかけよう」でした。子どもにとって橋をかけることはそんなに難しいことではないのに。
私は、ペリースクール生と別れる時、日本語で「ありがとう」と言われました。 そのとき、私は本当にみんなと心が通じ合えたと思いました。 自分が他国の人のことをもっと知り、素直な心とすがすがしい目を持って接することさえできたら世界中に笑顔が溢れると思います。

高水高等学校付属中学校3年 那須浩子

第59回 国際理解・国際協力のための高校生の主張コンクール

共催: 外務省、公益財団法人日本国際連合協会
協賛: 全国人権擁護委員連合会、公益社団法人日本ユネスコ協会連盟
後援: 法務省、文部科学省、日本ユネスコ国内委員会、日本放送協会、公益財団法人安達峰一郎記念財団、国連広報センター

中央大会(本選)
日時: 平成24年10月22日(月) 10:30~17:00
会場: 国連大学 エリザベス・ローズ会議場
出場者: 各都道府県代表

国連は世界の子ども達の未来をどのように輝かせるか―ユネスキャンが世界を変える―山口県代表 六年制普通科2年 内本千恵

 あの子は今何を考えているんだろう。傷ついてはいないだろうか。相手の気持ちを大切にしながら人と触れ合うことができる、そんな人が増えたら、世界が変わる。そう思いませんか。
私がこんな思いを抱くようになったのは、私の周りにいるたくさんの「素敵人」といろいろな活動をしてきたからです。「素敵人」とは、昨年の「ユネスコ子どもキャンプ」で出会った方に教えて頂いた言葉です。この言葉は今、私の活動の原点となっています。
ボランティアで活動する多くの人たちは素人です。同じ素人でも本当にこの人はすごいと素直に思える人がいます。そして、この人のようになりたいと思う人ができたら、それがライバルです。つまり敵。この敵という字を素人という漢字の中に入れると「素敵人」となります。
もともと私は、内気で消極的な性格だったため、学校外の活動には関心もなく、気軽で安全な自分の世界で暮らしていました。そこで楽しめればいいやと。でも、「ユネスコ子どもキャンプ」に参加して、それではだめだと気づかされました。
人も場所もそしてキャンプさえ、初めてづくしだった私は、不安でいっぱいになり、何かをしても迷惑をかけるだけだと、誰にも相談することができずにいました。ところが、この私の気持ちをじんわり和らげてくれたのは、触れ合うのを恐れていた、他ならぬ「みんな」でした。
私はこのキャンプを通して、人と触れ合うことの大切さを知りました。キャンプで一緒に過ごしたみんなは、私の不安に自然と気づいてくれていたのだと思います。みんなが笑いかけてくれたり名前を呼んでくれたり、ありがとう、ごめんねと言ってくれたりしたことが、どれだけ嬉しくて、心強かったか。
キャンプが終わって、そんな思いに浸っていると、ある出来事を思い出しました。小学生の時、私の心を切り裂く悲しい出来事が起きて、私は辛くてどうしようもなく、ただただ泣いていました。その時、私のいとこがたった一言、「泣くな」と優しく言ってくれたのです。特別な言葉ではないかもしれません。でも、あの時の私には大切な言葉でした。きっと彼なりに考えに考え、言ってくれた一言なのだと思います。
この出来事を思い出したとき、私は今までの人生で、相手の気持ちを考えて行動し、触れ合うことがどんなに少なかったことか、そう考えるといたたまれなくなりました。もっと人の気持ちに敏感でありたい。
この思いが原動力となり、私の生き方は一八〇度変わっていきました。養護老人ホームへの訪問を始め、地域のボランティア活動にはことごとく参加してきました。また、高校生討論会「SPACE」では、原発や少子高齢化の課題などについて、近辺の高校生同士で議論しました。この夏はユネスコ子どもキャンプの実行委員を務め、石巻市の高校生と交流する合同英語研修会にも参加しました。
私は、世界中の子ども達に、人と触れ合うことの大切さに気づいてもらいたい。貧困や差別や戦争や病。悲しいことや辛いこと、他人にはわからない痛みはきっとあるだろう。しかし、お互いのつながりを確認できたら私たちはそれだけでしあわせになれると信じたい。
東日本大震災の直後、海外からの圧倒的な支援が、私たちをどれほど勇気づけ、その活動に励まされたことか。それは失われたものの大きさに比べたらほんの一握りの援助だったかもしれない。しかし、そんなことは問題ではない。世界中の人たちが震災の悲劇を我がことのように感じ取って集まってくれた、その事実が私たちの未来を明るく照らしてくれます。
国連は世界の子ども達に輝く未来を約束できます。「相手の気持ちを大切にしながら、人と触れ合うことができる」子ども達にとって未来はいろいろな可能性と希望に満ちているから。子ども達の未来を変えるのは、使えばなくなってしまうお金や物ではなく、人を一生動かし続けることのできる人の思いです。
ユネスコの掲げる「心の中の平和の砦」は国連が作ってくれるものではありません。それはすでに私自身の心の中でも芽を吹き始めています。それは目には見えませんが、私たちユネスキャンは、子ども達の未来を輝かせたいと活動しています。だから絶対大丈夫なんです。

高水訪問

高水訪問~楽学について~1年1組 山田星子

 6月5日、周南市高水を訪れました。
初めに、田植えをしました。同窓会の方々に教えていただきながら作業をしました。私は初めての経験でした。田んぼの中の土は、とてもやわらかくて深かったです。列をそろえて、丁寧に植えることが意外に大変でした。私たちが食べているお米は、こんなに苦労して作られているんだなと実感しました。
次に、烏岳帽登山をしました。山頂まで登る時、道が悪いところや細いところ、急斜面がありました。山頂はとてもせまくて落ちそうでした。でも友達が「697mってスカイツリーより高い」と言っていたので、達成感がわいてきました。きりが多くて景色も少ししか見えなかったけど、先輩方はこんな自然溢れる地域で学んでいたんだなと思うと、すごくうれしかったです。頂上で校歌も歌いました。やる気に満ち溢れる気分になりました。
最後に、私たちの大先輩である坂田さんから、高水のシンボル「楽学」についての話を聞きました。「楽学」は孔子が書いた文章から取った言葉で、同じ学問を志す同門の人と楽しく学ぶという意味が込められているそうです。そして、「楽学の碑」の話も聞きました。学園内には5つの石碑があります。この碑を守ってきた先輩方の思いを胸に、感謝の気持ちを持って、精一杯「楽学」にはげもうと思いました。
今回の高水訪問で貴重な体験ができて良かったと思います。そして、私たちをお世話してくださった同窓会の皆さんや先輩方、先生、バスの運転手さんに感謝したいです。  今、115周年を迎えている高水で、「楽学」のもと努力して何事にも頑張りたいと思います。

高水訪問~楽学について~

みんなと学んだ大切なこと1年2組 松永希子

 私はこの高水訪問を通して、たくさんのことを学びました。そしてさらに、高水にはこんなにも深い歴史がある、ということも身に染みて感じることができました。
まず、田植えをしました。高水の先輩方のご指導の下、順番に稲の苗を植えていきました。私は、田の中に入ったしゅん間、ぬるっという感触を覚え、小学校3年生の時に行った「蓮根ほり」を思い出しました。苗を植える時、こしをかがめて、苗の列を乱さないように植えていくのですが、それが難しいのです。一見、簡単そうですが、こけそうになったり、足がぬけなくなったりと、思わぬハプニングが起こりました。それに田の中では、体が思うように動きません。つまり田植えは、「言うは易く行うは難し」です。そんな田植えをもっと広い土地でたくさん行う、というのはどれだけ大変なのか、体で実際に感じました。今は機械がありますが、それでも、水の管理や草ぬき、虫がこないようにするための対策など小さなところまで気を配らないといけない仕事なので、楽ではないと思います。私たちがいつもおいしいお米を食べることができるのは、農家の方が愛情をこめて、汗を流しながら頑張っておられるおかげです。それにこんないい経験ができたのも、私たちが安全に田植えができるよう、高水の先輩方が準備してくださったおかげです。私たちは、多くの人に支えられて生きている、ということを学び、これからも多くの人に感謝しようと改めて思いました。
次に、烏帽子岳に登りました。私は、4月に登った銭壷山と同様に少し歩いただけでつかれてしまい、完全に「坂に負けた。」と自分の体力の弱さにがっかりしました。そして、後ろのほうだった私は、前にいた友達が止まっているのを見て、「ゴールだぁ。」とすごくうれしい気持ちになりました。すぐに私は友達の方へかけ寄り、「やっとお弁当だね。お腹すいたー。」と言いました。しかし、友達から返ってきたのは、「え?まだ頂上じゃないよ。今からもっともっと険しく、急になるんだって。」という言葉でした。私は、唖然としましたが、前に進まないと、いつまでたっても頂上は見えてこないので、頑張ろうと思いました。そして、坂がすごく急で、足をすべらせたり、転びそうになったりしたけど、友達とはげまし合いながら頂上に着きました。苦労して登った頂上でみんなと食べたお弁当は、最高においしかったです。私に声をかけてくれた友達とおいしいお弁当を作ってくれた母に感謝しています。
最後に、高水の先輩の坂田康男さんに高水の歴史について、お話を伺いました。高水のシンボルである「楽学」にこめられた、たくさんの思い出や「山高く水清し」という高水の名前の由来。また、昔の校舎の位置などいろんなお話を聞かせていただき、とても勉強になりました。一番印象に残っているのは、昔の先生と生徒の関係です。学校内では、どの先生も厳しく、ビンタは当たり前だったそうです。今の学校生活の中では考えられません。でも学校を出ると、とても仲が良く、先生は生徒にしたわれていたそうです。今回、様々なお話を聞き、高水の深い歴史にびっくりし、感動しました。これから、このような高水の歴史に誇りを持ち、過ごしていきたいと思います。
この高水訪問は私にとって、一生に一度のいい経験になりました。あたりまえだと思っていることも本当はたくさんの人の手がかかっているのだと知りました。これからも、「ありがとう」という感謝の気持ちを忘れないようにしようと思いました。それから、今回の経験を生かしながら、大好きになった校歌とともに楽しい学校生活を送りたいと思います。

みんなと学んだ大切なこと

第9回日台文化交流 青少年スカラシップ 作文部門

山口県内に在住または在学する青少年を友好都市中国山東省に派遣する
「山東省青少年友好の旅」の参加者を公益財団法人山口県国際交流協会が募集。
本校から募集枠5名に次の2名が応募、みごと参加が決定しました。
六年制普通科1年 重田真輝
同じく     2年 浦崎笑子
また、浦崎笑子さんは、「第9回日台文化交流 青少年スカラシップ」作文部門「最優秀賞」に決定しました。

浦崎笑子さんの「第9回日台文化交流 青少年スカラシップ」作文部門「最優秀賞」の作品および、 重田真輝さんの参加理由書は以下の通り。

企画
(公財)山口県国際交流協会
(後援:山口県、山口県教育委員会、山口県私立中学高等学校協会)

第9回日台文化交流 青少年スカラシップ」作文部門「最優秀賞」浦崎笑子

 「今日はよく晴れているから台湾が見えるね。」もしかしたら泳いで渡れるかもしれない、と子供ながらに思った。それほど近いと感じる距離だった。
私は幼い頃、日本最西端の島、与那国島で暮らしていた。与那国島から台湾までの距離は約110km。隣の石垣島までは飛行機で約35分。私の住む地点から見ると、台湾と石垣島はほぼ同じくらい近くて遠かった。大陸に見えた台湾に飛行機は飛ばなかったからだ。
与那国島と台湾との間に引かれた一本の国境線を地図上に発見したときは、少し不思議な感覚を持った。しかもその不思議さは私の意識をはっきりと転換させてしまった。それ以来、泳いで渡れそうに見えた台湾は、渡ってはいけない所、見えるだけの世界に変わったのである。
私は日本で一番台湾に近い場所に住んでいながら、台湾のことを全く知らなかった。110km先の島国には日本とは違う言語や文化がある。渡れないとわかるとなおさら思いは募った。いろいろな想像が私を満たし、わくわくどきどきさせた。台湾から与那国島は見えるのだろうか。向こう側の子どもももしかしたら、今同じ思いで私の方を見ているかもしれない。
琉球諸島から遠く離れ、日本本土で暮らして長い時間が経過した今、私は改めて思うことがある。私のこの位置からは与那国島も台湾も同じように見えない。見えないばかりか、同じくらい何も知らないということである。
日本史は学校で習ったが、与那国島の歴史などどこにも書かれてはいなかった。与那国島が含まれる琉球諸島は、明治の初めに断行された廃藩置県までは琉球国(藩)と呼ばれ、首里城を中心に王朝が存在した。外交や経済上でも清国と深くつながり、幕府の支配下にありながら独自の朝貢政策を採ることができた。薩摩藩からも幕府の名代として様々な束縛を受けたが、王国の文化と生活様式を維持してきた。
つまり、沖縄も歴史の歯車が少しずれていたら、現在の台湾の一部になっていた可能性は大きい。まして琉球諸島の最西端に位置する与那国島なのだから、そうなる可能性と必然性は十分考えられるだろう。またその考え方を押し広げてゆけば、私たちの文化観にも新しい視座を設定できそうに思える。
翻って現在の台湾は、中華人民共和国の建国以来、大国の思惑に翻弄されながら、考えれば考えるほど複雑極まりない状況にある。しかしそのような状況に置かれながらも経済的な成功を収め、今や大陸の中国人からも羨望のまなざしが注がれるほどだという。そしてこの隆盛の基礎を築いたものが、日清戦争後の日本統治の功績の一つと考えられるならば、台湾と私たちをつなぐ絆は本当に大きいと言わざるを得ない。
昨年9月に衝撃的なニュースを見た。日本人6人が東日本大震災の義援金を送ってくれた台湾に対し、感謝の気持ちを伝えるために与那国島から台湾まで泳いで横断した、というニュースだ。私が子供の頃、冗談がてらに思っていたことが達成されたのだ。この事実に驚きが隠しきれず、その記事から目が離せなかった。台湾からの義援金は、今では約200億円にものぼり、この金額は外国の義援金としては最も多い額だ。私はここに日台の深い関係を覚える。しかし、台湾を国家だと認めている国は世界中に23あるだけで、日本も日中関係を優先し台湾を国家と認めていない。日台両国は友好な関係にあるにもかかわらず、日本も国際政治の因果関係が作る矛盾の中であがいている構図だ。
昨年6月に台湾と中国が経済協力枠組み協定を締結した。協定は両国間の関税を減らし、貿易をスムーズにすることを目的としている。だがこれは、ひとまず外聞を捨て、両国の利害の一致する経済の実を選択した結果に過ぎず、未だに台中が歴史的邂逅に至る道筋さえついてはいない。
私は所属するユネスコ部で「相互理解」という言葉に出会った。お互いを理解する。そのためには、まず友達になる。世界中に友達を作る。そして、もし日本とその友達の住む国が戦争を起こしてしまっても、その国のことを嫌いには絶対なれない。私はこの言葉から話し合うこと、自分の気持ちを伝えることの大切さを実感した。そして、様々な人の意見をもっと聞きたいと思った。将来世界中に仲間を作り、相互理解を広め、偏見や差別をこの世界から無くしたい。台湾と日本そして中国は、私たち若い世代の新しい感性と歴史的視座によってつながれると信じたい。
各国の友人たちと台湾で一緒に110km先の日本の島を眺めてみたい。私の故郷について話したい。たった110kmが文化も言葉も風景も遠く隔ててきた。この距離がどれだけ近くて遠いのか…。みんなの目で確かめてみたい。

浦崎笑子

浦崎笑子

山東省青少年友好の旅」の「参加理由書」重田真輝

①「友好の旅」へ応募した理由
山東省と聞いてすぐに思い浮かんだのは、春秋時代の斉だ。その西、魯では孔子が生まれ、後に儒学と呼ばれた思想を広めるため諸国を遊説していた。春秋から戦国時代へと続く群雄割拠の4百年間は、中国史上最も長く続いた混乱の時代だった。しかし、同時に諸子百家が出て、政治と人間についてとことん論争を繰り返し、人類の思想の基盤が築かれた時代といっても過言ではない。
改めて済南を調べてみた。なんとまあたくさんあること。この地は遺産や遺跡の宝庫だ、まるで中国五千年が凝縮されているようだ。私が本ツアーで特に期待しているのは?博市の周村古大街見学である。臨?は斉国の都として八百年も繁栄した国家級の歴史文化都市であり、桓公・管仲・晏嬰などの歴史的著名人を輩出した。想像するだけでもわくわくして来るではないか。
青島は済南と比べると近代的な街だ。東方のスイスと呼ばれるほど美しいらしい。しかし、これはドイツの植民地時代や日独戦争など痛ましい歴史の名残であることを忘れてはならない。
現在の山東省は済南を中心に中国経済を牽引する。世界中の多国籍企業が進出し、世界のグローバル化を象徴する地域だとも言える。初めて中国を学ぶ者にはうってつけの場所である。当地の若い世代が一体今どんなことを考えているのか。一時も早く交流してみたい。

②あなたにとってこの旅行の経験がどのように役立つと思いますか。
私の夢は医師となって人の役に立つことだ。私は医師という職業を通じて多文化が共生できる地域づくりに貢献したい。そのような医師になるために、今から広い視野と多文化共生の精神を培うことが重要だと思う。
昨年の3月に東日本大震災が起こった。その直後から日本は海外の国や地域から大変多くの支援や励ましをいただいてきた。しかしその一方で、被災した外国人への気配りができていただろうか。言葉が通じず不安な外国人たち、けがをしたり、病気になったりした外国人たちに、私たちはどれだけのことができたのだろうか。 多文化共生とは耳触りのよい言葉であるが、それを実際に進めるものは、具体的な行動・行為であると思う。例えば圧倒的な自然災害の最中においても、日本人が受ける援助と同様の援助を外国人が受けられる環境や仕組みを作っておくことが、これに当たる。それができて初めてどんな人にも分け隔てなく気配りができたということになるのだと思う。
このとき、実際に人の命を預かる医師自身の発する声やその思いは非常に大きいと思う。医師ならではの視点で行政に働きかけをすればさらに良い仕組みを作っていけるのではないか。
短い時間ではあるが、悠久の中国を慕いながら、現代中国とその若者たちとの交流を、少し大げさだが、私の多文化共生の原点としたい。

重田真輝

在校生への結果報告会の様子。